今年もパネルシアターキャラバンが石巻に楽しいひとときをお届けに参上しました。
つらい思い、悲しい経験をしたこどもたち、そして大人にも、少しでも笑いや感動をお届けできればと始まったこの試みも昨年8月、12月に続きこれが3回目となります。
今回も淑徳大学から10名、淑徳短期大学から5名、計学生15名が参加しました。藤田佳子先生の引率のもと、8月27日から3日間、石巻の保育所や高齢者施設をまわりました。
参加した学生の感想からは、いまだ生々しい被害の爪痕、復興にむけた現地の人々の努力、そういったものを見聞きする中で、学生自身も様々なことを感じ、学び、何かを得た様子がひしひしと伝わってきます。
その一部を抜粋して掲載します。
参加学生のレポートより
(石巻市門脇小学校)「小学校は津波で流されてきた車のガソリンが引火し、校舎の半分が焼けこげていました。
窓ガラスは割れており、柱は変形していました。
(中略)人々が暮らしていた場所であり、多くの人々が亡くなった場所である所に、今自分が立っていると思うと、何ともいえないような気持ちになり、悲しみが込み上げました。
私たちが被災地の子どもたちに笑顔を届けるためにボランティアにいったのに、逆に子どもたちから笑顔とパワーをもらってしまいました」
(総合福祉学部 1年 瀧口加奈)
「その小学校の周りは一見すると一面の野原のようだった。だが、そこにはかつて民家が密集するひとつの町が存在していたという。
たしかに、雑草の生い茂った地面の所々には、家の床であったであろうタイル張りが見えたり、家の仕切りのコンクリートが40~50センチほど残されていたりするのが見受けられた。
無論、被害はここだけでなく、バスの行く先々でそのような、悲惨な状況を見ることができた。石巻市立大川小学校や、同市立雄勝病院はその一例である。このような現状を目の当たりにし、被災者の方々がどれほど痛惜の念を抱いているか、視覚を通して痛感した。」
(国際コミュニケーション学部 1年 草村寛樹)
「門脇小学校の周辺には津波で流されてしまい、もう基礎の部分しか残っていない家がたくさんありました。
その周りには食器や靴などが落ちていて、1年半前まではこの場所で平穏な日常生活が営まれていたことをリアルに感じとれました。
私はそれを見たとき胸が締め付けられるような思いになりました。
けれど、その小学校の校舎に掲げられていた「門小ガッツ僕らは負けない」と書かれた横断幕からは力強さを感じました。」
(淑徳短期大学 こども学科 1年 齋藤由香里)
(日和山公園から石巻市街を見て)「海沿いと川沿いの低い位置に面した建物はほとんど津波にやられてしまい、現在もそこにあったであろう建物の土台や生活用品が残っている状態でした。
そこには夏草が生え、人が住めるようになるというにはまだ時間がかかるようでした。
(中略)高台から見下ろすと、積み上げられた車や生活用品、木材が一箇所に集められ、本当ならば港町と海の綺麗な眺めのはずなのですが、なんだか向こう側は違う世界のようで寂しくなる景色でした。
一方、雄勝はというと向かう道中には北上川沿いの土手が整備され新しい道路ができていたり、崩落した橋が修復されていたりと、着々と復興は進んでいるという印象を受けました。
また中心部には商店街ができ、魚船で海に出る漁師も数多く見られ活気が戻ってきているようでした。
震災から1年半でここまで変わるのかという驚きと地域の人々の頑張りに頭が上がりません。」
(綜合福祉学部 4年 菅生温史)
「保育所では、元気な子どもたちに圧倒された。みんなが夢中になって歌を歌っていたり、手遊びを楽しんでくれている姿を見ていて私も自然と笑みがこぼれた。
子どもたちの目はとても輝いていてとてつもないパワーを感じた。
私が思い切り楽しんで問いかければ、子どもたちが打ち解けていってくれることがとても嬉しかった。」
「雄勝病院では、以前周りにあった車や瓦礫がすっかりなくなっていた。しかし、病院は変わらないまま残っていた。
なんとも言えない思いでただ、病院を見つめるばかりだった。
私には考えもつかない。屋上に逃げても助からなかった事実が信じられなかった。
何とも言えない悲しい静けさが病院を包んでいた。」
(綜合福祉学部 2年 石橋涼子)
「未だに消えない被災の傷痕。
(中略)一番印象に残ったのが大川小学校です。
逃げ切れず、川をさかのぼってきた津波に流されてしまった多くの生徒や教師たちが犠牲になったことを知り、私はなんで、なんの罪もなくこれから未来のある子どもたちが死ななくてはいけないのか?と、怒りと悲しみが溢れていました。
しかし、そんな被災があったのに石巻の人たちは笑顔でした。
公演先の人たちも笑顔が絶えませんでした。(中略)
帰るときみんながずっと手を振ってくれたときは泣きそうになりました。」
(総合福祉学部 1年 長谷川翔一)
「3.11の悲劇を誰にも忘れてほしくない」という気持ちがある中で「綺麗になって良かった、復興が進んでいるのだな」と感じる半面、多くの人の心の中で少しずつ震災の悲劇が薄れていくのではないかなと感じ複雑な気持ちでいっぱいでした。
もちろん、また人が帰って来て石巻に明るい生活が戻ることを心から願っています。
町のあちこちにあった沢山の物が積み上げられた大きな山は決して「瓦礫」ではありません。
町に落ちているガラスの破片や海水で泥だらけになった生活用品なども決して「ごみ」ではありません。
現地の方々にとっては温かい住まいだったはずの一部であり、一つひとつに沢山の思い出がつまっていたはずです。
自分はここで何を出来るのだろうかと、考えさせられました。
1年前は、近くに行く道さえなかった大川小学校も立派な慰霊碑が作られ沢山のひまわりと花束で飾られていました。
(中略)まだまだ爪痕が残る雄勝地区のあちこちに咲いていた綺麗な明るい黄色のひまわりは、人々に「元気になろう!笑顔になってよ!」と語りかけながら立派に咲いているかのようでした。」
(国際コミュニケーション学部 3年 松島沙羅)
「宮城県へボランティアに行く前の心境が正直あまり万全ではなかった。自分が被災地の方々にどう接し、どんなパネルシアターにしていけばいいのかがわからなかった。
(中略)実際に石巻の保育園?高齢者施設でパネルシアターを発表してみると子どもたちや高齢者方々の自分たちのパネルシアターの発表を見る姿が関東の子どもたち?高齢者とあまり変わらなかった。
真剣に見てくださる姿、楽しんでいる姿、私たちの質問にこたえてくれるなどの姿を見せてくれて、私はこのボランティアに来る前の様々な想いが自然となくなるようでした。
まだ被災して1年半ぐらいしか経ってないのにこのような姿を見せられてはこちらの方もがんばらなくてはいけないなと最後まで自分が伝えられることを伝えようとがんばっていけた。」
(国際コミュニケーション学部 1年 松本赳夫)
「私は被災地を訪れたのは初めてでした。(中略)住んでいたところから、追い出されたり、今後どうなるのかもわからない状況で家族や友人も失った人が、国の対策や、東京電力がどうしてこうなったのか、色々な問題を抱えていると思っていました。
でも、今回、宮城県石巻市を訪れて、思ったのは、どこが一番苦しいんでいるとかではなく、どこも苦しみは同じ、沢山の問題を抱えているのは同じ、家族や友人を亡くした人も大勢いて、家が流されて何もなくなってしまった人、多くの人がそう言うなかで、乗り越え自分の住んでいた場所を復興させようと、一生懸命闘っているのだなと思いました。」
(淑徳短期大学 こども学科 1年 菰田めぐみ)
「海を見ていて、こんなに静かできれいなのに、こんな海が牙を向いたとは思えないとずっと考えながら眺めていました。
(中略)被害にあった小学校と病院へお花をたむけに行きました。
いままで涙をこらえていたのですが、いつのまにか涙がでていて、亀山旅館にもどる途中泣いてました。
とても悲しくなってしまって気持ちが抑えきれませんでした。
また気持ちを整理して、明日も最後の保育園でのパネルシアターがんばろうと思いました。」
(淑徳短期大学 こども学科 1年 深井茜)
「東日本大震災からもう一年半。まだ一年半。当時見た写真のように沢山の瓦礫とかは道に転がっていることもなく、とても奇麗に道も舗装されていました。遠くには積み上げられた車や瓦礫の山も見えましたが、一年半でこんなにきれいになるものかと思うくらいでした。
沢山の人が被害に会い、すこしでも早く前の生活に戻れるよう復興で頑張ってるとき、自分は何もできなかったので、今回のパネルシアターで少しでも皆さんに元気をあげられたら、元気に楽しい時間を届けられたらいいなと思いました。」
(淑徳短期大学 こども学科 1年 平岩美咲)
「反省点を上げるときりがないぐらいでした。
(中略)自分にはパネルシアターは向いていないのではないかとも思って、車の中で一人落ちこんだりもしました。
でも、色々と公演先を回った時に、見ていてくれた人たちが喜んでくれたのは、本当に嬉しくて、そして私はもっと頑張らなきゃって思いました。
それに、他の人たちの作品を見ていたときに、実力の差をひしひしと感じたのと、私もこんな風に出来るようになりたいなという気持ちがありました。
だからこれからは、今回の反省を生かして、色んな公演に参加して、経験を積んで、皆がやっていたような、見ている人たちが引き込まれるようなパネルシアターを目指していこうと思います。」
(淑徳短期大学 こども学科 1年 國分暁子)
「私たちは写真やテレビを含め、実際に流されてしまった光景を見て、津波の恐ろしさや、実際に苦しんでいる人がいることを知りました。
復興していくということは、実際に被害にあった建物やその風景はなくなってしまいます。
それでは、復興する姿になればなるほど、津波が起きたことが嘘だったかのように忘れられてしまうのではないか?と思ってしまいました。
実際に流された場所に行くのはつらい、被害の風景を見るのはつらい、と言っている現地の方々がいるので、町が以前のように戻っていくことはとても良いことだとは分かっています。
ですが、復興された町だけを見て「町が以前のように戻ってよかった」の簡単な一言で終わらせてはいけないなと感じました。
津波の被害の大きさや、実際に亡くなった人が多くいること、悲しんだ方がたくさんいたことを忘れてはいけない。
(中略)実際に現地を見てきた私たちだからこそ、そこで見たことや感じたことを周りの人たちに伝えていくべきだな、と今回改めて強く思いました。」
(総合福祉学部 4年 福田綾香)